安楽死の議論をするのなら、一緒に考えて欲しいことがたくさんあるのです。

ALS介護

※この記事には津久井やまゆり園についてや自死について書かれています。心が疲れている方や、そういう話題に触れたくない方は、閲覧されないことをオススメします。自分の心を、大切にしてくださいね。

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「◯◯、亡くなっちゃったよ。」

僕が性同一性障害をカミングアウトし、SNSで当事者と繋がるようになってから、もう何人見送っただろう。いや、見送ることすらできずに遠くに行ってしまったのだが。。。

人の命に関する事件がまた起きてしまった。

今日7月26日は、津久井やまゆり園の殺傷事件が起きた日。

多くの命が理不尽に失われたあの日から4年が経った。

今年1月から裁判が始まり、3月に死刑判決が確定。犯人の主張は優生思想そのもので、当然受け入れられるものではないが、当時犯人に同調する声が上がっていて怒りなのか恐怖なのか、震え上がったのを覚えている。

そして先日、京都に住むALS患者の女性が亡くなる事件が起きた。

SNS上で繋がりを持ち、安楽死の名目で本人が依頼した「自殺幇助」と報道されているが、行為をおこなった医師のツイートや思想から、ただのそれではないと言われている。

無論、今の日本では安楽死は認められていないわけで、今回罪に問われるのは当たり前の話だ。自殺幇助なのか、殺人なのか、どういう判決が下りるのかは気になるところだ。

今回の事件をきっかけに、Twitter上では安楽死に関する議論が熱を持っている。

反対派、賛成派のどちらの意見も目を通し、さらに僕なりに何年も考えてきた中では

僕は安楽死が法制化することには「賛成」という立場だ。

運用の仕方、法律の内容はしっかり議論されるべきだと思うけれど、法律として安楽死というものがあるのは、いいことだと思っている。

ただ、賛成だからといって「積極的に安楽死ができる社会!」がいいと思うわけではないし選ばないに越したことはない。

なぜ、安楽死の法制化に賛成なのか。

僕は、安楽死という制度が「死にたい」と思う人や広くは一人一人が【自分の満足する生き方】について考えるきっかけになって欲しいと思っているからだ。

冒頭で述べたように、僕はこれまで何人もの当事者が自ら命を断つ現実を目の当たりにしてきた。僕自身も18歳からの数年間、希死念慮と付き合い続けて今がある。

「未来への絶望」「自分の身体への嫌悪感」「生きている事が申し訳ない」と様々な理由で人生を終わらせることを考えていた。

それでも今死なずにいられるのは、社会とのつながりや絶望の解消ができたからだ。僕はとってもラッキーだったと思う。

しかし僕の友達は、それができなかった。

誰にも言えず、一人で苦しみ、数時間前まで人前で大笑いした後、フッと逝ってしまった。周りの人も僕も、原因がなんでかわからなかったけど、本名も住んでいるところも知らない彼の本心を知る術はもうなかった。

それからしばらくして、海外では安楽死ができることを知り、調べていくうちに、写真家・幡野広志さんのことや、緩和ケア医の西智弘さんと出会った。一方的にだけど。

お二人はそれぞれ「がん患者」「医師」という立場から安楽死についてお話しされていた。そして今回、西智弘さんが本を出版された。

タイトルは「だから、もう眠らせてほしい。」

西さんのもとに訪れた二人の患者さんや、幡野さんや宮下洋一さん、松本俊彦さんとの対話を通して、死ぬこと、生きること、安楽死のことが描かれている。

この著書の中で僕が一番共感したのは、松本俊彦先生の言葉

「(安楽死があれば)これまでなら衝動的に自殺していた人に僕らが関われるようになって、そこで少しでも救われていって、死以外の選択肢に向かっていく人が出てくるんじゃないかって気もするんですよね。安楽死という窓口があるからこそ。」だ。

これは僕もずっと思っていたことだった。

今まで、相談する場所がなくて孤独を感じて自死を選んでしまった人、今現在希死念慮や肉体的、精神的苦しみを抱えている人が、安楽死という制度を窓口にして「誰かと繋がる」事ができるようになるのではないかと思っている。

これまで「自殺」をするしかなかった人が、思いとどまれる、誰かに相談して、話を聞いてもらって、生きる術を一緒に見つけてもらう、そんな時間が生まれたらいい。

僕は、安楽死制度は、希望になりうるはずだと信じている。

そもそもだが、年間2万人以上が自殺をしている(令和元年度、警視庁発表資料による)この国で、安楽死だけを反対したところで希死念慮が強い人は自死を選んでしまうだけだと思っている。

もっと根本的な問題や課題が山積みだろう、と思う。

自死はとっても悲しい。本当に悲しいのだ。

本人の死にたいという思いを、絶望を、苦しみを、本人だけに背負わせてしまうのだ。

だったらいっその事、安楽死という制度を窓口に、本人や家族、関係者みんなで生きる事や死ぬ事、苦しみや痛みについて向き合える時間があったら。

安楽死という制度があって相談を持ちかけたとて処置を行わずに生きていくことも選択可能になれば。

その環境があったのなら、僕は友達を失うことはなかったかもしれない。

安楽死の法制化に反対の人の意見にも共感することは多い。

反対派の意見を読み進めると必ず出てくる意見に「死ぬことを強制されたらどうするんだ!」「なぜ安楽死を選ばないのかと言われる人が出てくる」というものがある。

Twitter上で『デスハラ』という漫画が載っていて、安楽死が法制化され適用範囲が広がっていく中で「おばあちゃん、いつ死ぬの?」と安楽死制度の利用を問われ、安楽死しないことは子供や周りに迷惑がかかることだと他人から言われる、という世界を描いていた。そんな世界は、怖いし絶対に嫌だなと思った。確かにこうなるなら、安楽死制度なんてなければいいと思う。

ただ、僕が言いたいのは「人の生き死にの決定を誰かがするものではない」これに尽きるのだ。

津久井やまゆり園事件の犯人は「障害者は車椅子に一生縛られて、気の毒だ。」とか「障害者は不幸を作ることしかできない」と主張しているが、気の毒だとか不幸だとか、そんなの人が決めることじゃない。その人の人生や幸せは、その人のものだ。

一方で「意図しない延命治療」というものが行われていることもある。

「もし何かあったら、延命治療はしたくない。管を入れられたり呼吸器をつけて生きることは望まない」という人に対して家族や他人の「生きていて欲しい」という希望を通すために延命処置をされてしまうケースはよくあるし、介護現場でも胃瘻や気管切開の手術をするか否かの選択の時にはみんなが悩み、時折モメる。

どちらのパターンも、本人が生きたいか、どう生きていきたいかの意思は無視されている。

僕はこれが一番嫌だ。

生きることを望むなら、誰だって生きていて欲しい。

誰かの意見に左右されたり、操作されることなく、生きることを選んで欲しいし、逆に延命を望まないのなら。最期まで自分らしくいたいと望むなら、本人の意思ではないところでただ命だけ伸ばす処置はしないで欲しい。

どちらも、純粋な本人の意思が尊重されて欲しいと思うのです。

そして「生きていたいけど、人に迷惑がかかるから」と思う人には、そんなことないよと言いたい。難病があって、誰かの手を借りないと生きていけないのなら、福祉の制度を最大限活用して欲しい。

24時間他人介護を利用している人はたくさんいる。難病があっても生きることを諦めずに、楽しそうに生きている人もいるし、僕の仕事はそれを支えることだ。

反対に「もう十分がんばった。これ以上の苦痛は耐えられない」と思い、それがどうやったって解決しないのであれば、自分の意思が通るうちに旅立つ選択もあっていいと思うのです。

自分の身体を、心を、自分でコントロールできなくなる前に。そうしたいのであれば、僕はいいと思う。

ただ、自死はあまりにも惨すぎる。方法によってはご遺体に会うことすらできないし、突然すぎる。

そうなるくらいなら、安楽死という制度があっても、僕はいいと思うのです。

安楽死が一つの【希望】として法制化されたらいいなと。

もし安楽死が制度化されるとして。

僕が望む社会のあり方は、

1、人の生き死にを他人が決めない、口を出さない、圧をかけない。

2、死生観についてもっと考えるきっかけを持つ。

3、そもそも「生きていたい」と思える社会にする。

4、ちゃんと議論をする。

ことです。

議論をせず安易に決めることは僕も反対です。

生きている価値とか意味とか、わからないならわからないままでいい。そんなのなくても、生きていたいなら生きていればいいのです。命に、価値とか意味とか、他人からの承認はいらないと僕は28歳になってやっと気づきました。

あなたの人生が、誰にも操作されず、決めつけられることなく、あなたのものであり続けますように。

最後になりましたが、これまでの事件で被害に遭われた方へ謹んでお悔やみ申し上げます。

さとうゆうすけ

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